ブランド服に思う、本当の良質とは?
夫のお気に入りの某ブランドの長袖シャツ。 両脇の下が破れて?(ほつれて?)しまい 繕(つくろ)うよう頼まれたので 本日、チクチクと縫っていたのですが。。。 (我が家にはミシンがないので手縫いです^^;)もともとの縫製(ほうせい)が雑すぎて、繕うのがとっても大変で 怒りすら覚えました。 布と布の合わせ方、縫い方、縫い目、全てにおいて雑! しかも、材料費削減のためか、縫いしろが少なすぎて 「これじゃぁ、縫いしろが足りなくてほつれるはずだわぁ(;-_-) =3 」 という状態。 いくら、ブランド品でデザインが素敵だったとしても こんな縫製じゃぁ~ね~( ̄_ ̄ i) というか、よくこんな雑な作りの物を商品として売れるわねぇ~ と、心の中でぶつぶつとつぶやいてしまいました。
ワタクシ、今はブランド品は買いませんが それでも、最近はどんなものがあるのか ブランドショップに立ち寄って商品を物色したりするのですが 洋服は縫製が雑だったり 靴などは皮と底を貼り付けるボンドがはみ出ていたりと 作りが雑なお品を結構見かけます。 実は、亡くなったワタクシの母が、 若いころに洋裁店で務めていた経験があり、 「既製品は肌触りも、縫製も悪いから着心地が悪くて着られない。」 と、自分の縫った服以外ほとんど着ない人でした。 一緒にデパートに行っても 生地を触って肌触りを確認し、くしゅくしゅっと握ってしわの加減を確認し さらに裏返しにして縫い目を確認したうえで 「生地はいいけど、縫製がねぇ… やっぱり自分で縫ったほうがいいわ。」 と、何も買わずに帰るような人でした。
一緒に生地屋さんに行くこともありましたが、 生地だけで洋服を一着買えるくらいのお値段のものを選んでいました。 子供の頃は、 「高いっ!!この値段なら作らなくても洋服一着買えるじゃん!」 と思っていましたが 大人になると、そのことの意味も分かるようになりました。 母が亡くなった時に、遺品整理をしていたら 私が子供の頃に見たことのある服 つまり、30~40年前から着ていた服が 型崩れも色あせもなく、破けもせず、 つやのある光沢と さらさらとして心地よい肌触りのまま残されていました。 夫のブランドシャツを繕いながら 「良質。」とは、ああいう物のことを言うのだなぁ… と、しみじみしてしまった初老の秋のとある朝でした…('-'*)
病院の過剰請求を見つけ返金してもらった時のお話
過去に、掛かりつけの病院の過剰請求を追求して、返金してもらった時の話を書いてみようと思います。 事の発端は、診断書の二重請求でした。諸事情により持病の医療費に関する手続きを お役所で2件ほど済ませなければいけなかった私。2枚目の診断書料を払う際に、「1枚の診断書で2件とも手続きできたんですよ^^;」 とのこと… ですが1件目の手続きは、すでにお役所が処理中のため 「この案件もついでにお願いします。」 なんていうわけにはいきません。 役所とはそういうものです。 1枚目の診断書が5250円、2枚目の診断書が6300円。 本来、不必要な6300円もの出費を強いられたのでした。 まぁ、その件は、窓口の若い女の子が 包み隠さず話してくれた上で 「次からは気をつけます。申し訳ありませんでした。」 と、頭を下げてくれたので、謝ってくれている若い女の子に、だいの大人がガミガミいうのもどうかと思って 「分かりました。」と、怒らず終わらせました。 ですが、確定申告の時期に 過去1年分の医療費の領収書を見直していたところ 掛かりつけの病院の領収書等に不審な点が… 具体的なやり取りを書くとかなり長い文章になってしまうので、随分、割愛して書きますのでご了承ください。
不審な点を「ここ、おかしくありませんか?」と会計窓口の方に聞いたところ、 「そこには書いてありませんが(記入漏れですが)合ってます。」 と、調べるわけでも、手元の資料と照合するわけでもなく即答されてしまいました。でたらめな対応に腹立たしく思いましたが、ここで、この人に怒りをぶつけたところでまともな対応をしてはくれないだろうと割り切り、私が「合ってません。」と言ったから、会計が「合ってます。」という返事をしたわけで。 質問の仕方を変えて 私 「じゃぁ、ここは○○ですか?」 会計「○○ですよ。」 私 「じゃぁ、ここは?」 と、1ヶ所ずつ、読み合わせる形に強引にもっていきました。 すると、 「あ、ここ多くもらってますね。」 「あ、ここもですね。」 と、治療費を多く支払っていたことが発覚。 やっぱりね…と、特に驚くこともなかったワタクシ…
650円ほど返金していただきましたが、毎回、会計と、こんな押し問答をしなければ、過剰請求されてしまうのかと面倒な気持ちになってしまいました。そんな時、私の担当医が「副院長」の立場であることを思い出し、担当医にその話をしたのでした。 担当医は真面目で誠実で責任感の強い方だと信じていたので、 「それは申し訳ありませんでした。すぐに対応します。」 と言ってくれるとばかり思っていたのですが、 「この病院の会計は最近コンピューターを導入したばかりで、それまで、手計算で治療費を計算していた。ウチの会計はまだ、患者さんの細かい質問に答えられるだけのレベルにはない。」 とのこと。 「ほっほぅ? 事務方がコンピューターに慣れていなかったら、患者さんに損をさせてもいいってことですか?」(ワタクシの心の声) と思いましたが、確かに何百人の患者さんの医療費計算を、手計算となると、ものすごく大変だろうということも想像はできます。2人分の家計簿でさえ大変だと思うような私ですから…( ̄ー ̄; 私:「確かに、どんな事柄においても、ヒューマンエラーは起こり得ますから仕方のないこともあると思います。だから、診断書の二重請求の時も全く怒らず、許しました。ですが、私が合っていないと言っているのに調べもせず、何の根拠もなく、合っていますと言い切ってしまう会計窓口の、その姿勢がいやなんです。それに、計算ミスを許していたら、わずかな金額からでも、大きな横領につながることだってありますよ。」 と、担当医にお伝えしましたが、どことなく煮え切らない態度で、お茶をにごされた感じに終わってしまいました。 この人なら対処してくれると思ったのに…(熱く担当医を信頼していた私) 担当医を医師として信頼しているから、この病院をかかりつけとしておきたい、だけど、会計がズサンな病院はいやだ…怒りと情けない気持ちでいっぱいになって、とぼとぼを病院を出ようとすると、病院に対するご希望をお書きくださいと「投書箱」が!! うおぉおおお!! とばかりに、思いのたけを書きつらねました。ヒステリックに書いて、クレーマーやモンスターペイシェントだと思われ、相手にされなかったらいやなので、丁寧で冷静で簡潔な文章を心がけ、最後に「ご事情はおありでしょうが、改善できるよう努力していただけると嬉しいです。」と締めくくりました。 これならクレーマーっぽくないだろっ( ̄∇ ̄+ と、思いつつもスーパーなどの投書箱では、自分達に都合の悪い投書は社員やパートが勝手に丸めて捨ててしまうこともあると聞いたこともあったのでこの投書も院長に届くかどうかは分からないと思っていました。
投書後、初めて病院に行った際、担当医(副院長)に 「投書されたそうですね。」 と言われました。匿名はイヤだったので、実名で投書したからです。 うわっ。 会計がでたらめなことの言い訳を、また聞かされるのかな?でも、これでもまだ会計をかばいだてして、患者をないがしろにするのであれば私も、お怒り解禁でお話させていただきますわよ( ̄∩ ̄# と、臨戦態勢で担当医の出方をうかがっていたところ… 担当医「ありがとうございましたっ!!」 私「???」 担当医「いやぁ~。実は私も事務方には思うところがあったんですが、私が事務方にとやかく言ったところで、いっかいの医者に医療事務の何が分かるの?と言われてしまうと、それ以上踏み込めなかったんですよ。ですが、高円寺さんが投書してくれたおかげで、院長にまで事務方の不備が伝わり、院長と私と事務方で事務処理システムを根本から見直す話し合いができました。船の帆に風が吹かないと船は動きませんが、高円寺さんがウチの会計システムの不備に風を吹かせてくれました。おかげさまで、ウチの会計システムがやっと正しい方向に動きだしそうです。本当にありがとうございました。」 と、何度も何度もお礼を言われてしまいました(●´ω`●)ゞ 以降、会計の方も質問には手元のデータを参照してから答えるという適切な対応をしてくれています。思いを伝える、分かり合うということの難しさに「秋菊の物語 」という映画を思い出しました。 自分の知らないところで何をされているか分からないということ、大きな組織で今までつちかってきた体質や習慣を変えようとすることは生半可なことではできないということを思い知りました。 今考えれば、副院長である私の担当医も、医師の仕事だけでなく、事務方の不備にまで真面目に取り組んでくれて、すごくレアなケースだったのかなとも思います。医師ですからね。事務方のことは知りませんっていうのは、当然だったかも。 かくして、私のかかりつけ病院はコンピューターでの事務処理を強化していく流れになったのでした。自分の身は自分で守らなければいけない時代なのですね。。。
もう、面倒だからプレゼントは「お金」でいいと思う
しばらく前に、「出産祝いで頂いて困る物」というような趣旨のブログの記事が人気を集めていて、「人様がくれたものにケチをつけるような人はやだ」みたいなコメントがたくさん入っているのを見かけました。 もちろん、お祝いしてくれる気持ちが嬉しくない人なんていないと思うんです。でも、贈り物って「物」ですから、相手の好みとか、相手の欲しいタイミングが分からずに贈ったり、贈られたりするのって、迷惑だと感じるのは、仕方がないことだとも思うんですよね。家の広さには限りがあるし、自分の趣味趣向にこだわりがあって、なおかつ義理堅い人は、自分の好みじゃない物をもらっても、捨てるわけにもいかないしって、なると思うんです。 ですから、私は 1 数十年来の旧知の友人なら好みのものが分かるから、確実に好きだと分かっている物を贈る 2 相手のことをしっかり分かっていないときは、現金、または商品券を贈る この、2点張りなんですよね。 先日も、20年以上の付き合いで、まあ5年に一度くらいしゃべるか、しゃべらないかだけど、気にかけている後輩の男性(40代)が結婚したので、もう、彼が今、どういう状態で、今の好みがどんなふうなのかは知らないから、さっくり、現金をのし袋に包んで、昔ながらのやり方で郵送しました。 私、日本の、この現金をプレゼントするっていう習慣がけっこう、合理的で好きなんです。たいして知りもしない相手で、何の情報源もない人に「物」を贈るって、結構ギャンブルな気がするからです。
昔は相手に迷惑にならない贈り物として、消えてなくなるものが良いとされていました。例えば、石鹸やハムなど、あって困るものではないからと、消耗品や食べ物を贈ったりしていた時代もありましたが、今は受け取り手側が「固形石けんではなく液状ソープがいいから、これ、いらない。」「うちはマクロビオティックを実践していて、肉は食べないの。」なんていう時代ですから、無難な贈り物というのがなくなってきちゃってるんですよね。巷に流通する商品の種類も多くなりましたし、好みも多様化してしまいましたから。(ちなみに私は、いらないなら、ちょーだい派です。) 田舎のほうなら、親戚の子が結婚なんてしようものなら、平気で30万円~50万円とか包むんですよ。本当に。で、そういう時の「祝儀袋」は上の写真みたいな貧相な祝儀袋(3~5万円用)ではなく、もっと、立体的な鶴とか亀とかの水引の入った、3000円から10000円の祝儀袋で贈るんですね。 こういうのなんですけど。これで1万2千円くらいです。和紙も上等な物を使っていて水引も、きっと、一つずつ手づくりなんでしょうね。それで、結納の時なんかの袋は3万円とかしたりするんですよ。古いタイプの儀式をする家柄なんかだとね。 私のように生まれも育ちもビンボーな人間から見ると、「え、そこまで体裁にこだわる?」と、思うふしも無くはないんですけど、お金を出せる人は体裁にこだわって、こういう美しい袋を作る伝統文化や、多額の現金を贈る風習を維持してほしいなーとも思ったりするわけです。 自分には関係のない世界だとタカをくくっていて、他人事だから、そんな、のんきなことを言っていられるワタクシなわけですけどね。体裁を気にしなければいけない立場の人達は、「また寿ビンボーだよー。」「離婚した奴は金返せー。」とか、言ってますから(笑)もちろん、冗談で言ってるだけなんですけどね。 もう、勝手に相手が欲しいものを「察して」贈るなんて面倒でリスキーなことはせずに、「現金を贈る」という文化があるわけですから、それをうまく利用して、うまく立ちまわるほうが賢いと思うんです。現金は気が引けるというのなら、商品券とか。 相手が何か困っていそうだなーって思ったら、ぽち袋に「寸志」と書いて、そっとテーブルの上に置いて、ささっと差し出せばいいと思うの。有用性が高いから続いてきたシステムなんでしょうし。
ある時、アルバイト先の男性がお父様が亡くなったとのことで急な休みを取りました。とにかく寡黙にコツコツ働く方で、人間関係のトラブルを嫌ってか、他のスタッフともほとんど口をきかない方でした。私もお話ししたことはなかったのですが、新幹線で遠方までお葬式に行ったとのことで、交通費が大変だったろうと、1000円ほど寸志を包んでお渡ししました。それ以来、その男性には親切にしていただき、2回目に安倍さんが首相になった時に「黒糖さん、安倍さんは今回2回目だから、絶対本気で経済政策やりますよ。絶対、株を買っておいたほうがいいですよ!」と、株を熱心に勧めてくれました。そして、株で儲けました。 ちょっと話は違いますが、心底貧乏だった時には、ビニール袋にお米を詰めて「良かったら食べて。」と、持ってきてくれた人達もいました。年金暮らしの方たちで自分の生活もそんなにゆとりがあるわけではなかったでしょうに、いい年をした女がおんぼろアパートに一人で住んで、しかも病気で働けないと知ってかわいそうに思ってくれたのでしょう。 「情けは人のためならず」という言葉がありますが、相手が本当に大変な時に、ほんの少しでも助けになればという気持ちでプレゼントをすれば、その気持ちは、きっと相手に届き、いつか巡り巡って、自分のところに帰ってくると思うのです。
人生の苦しみに終わりはない
アラフィフにもなると頭も体も衰えてきて、老化に逆らうためにいろいろとあがいています。 具体的に何をやっているかは→54歳から25歳になりました。 最近、老化と闘っていて思うことは、「楽して何かを得る。」ということはないんだな~ということ。これは老化と闘っているから思ったことでもありますが、自分の人生を振り返った時も、同じことを思うのです。若いころは、ほうっておいても何とか体はいうことをきくし、多少、いえ随分な無理もききました。ですが、この歳になってあちこちが悪くなってくると ・何も予防をせず、具合が悪くて(病気になって)苦しむか ・病気予防のために食事制限や運動・脳トレで苦しむか の2択しかないんだな~と、しみじみしています。
実際のところ、食事も1日野菜を500gきちんと量って摂り、タンパク質多め、炭水化物(糖質)少なめにし、ウォーキングや体操・筋トレをしていると、すこぶる体調が良くなります。 だけど… つらい…(ノω・、) 甘いものが大好きな私が糖質を控えるだけでもつらいのに、ゼイゼイいいながらウォーキングをしたり、ウンウンうなりながら筋トレやストレッチをするするのですから、結構しんどいです。だけど、それをやらないと肩こりがひどくなったり、内臓が痛んだり足腰が痛くなったりする。なんとなく日々の生活で、心も体もしんどくなって、食事制限や運動をやめてしまうと、てき面体調をが悪くなって、もっとしんどくなるという負のスパイラルに入ってしまうのです。 お金を稼ぐことも同じ。 お金を多く稼ぐためにつらい思いをするか お金がなくてつらい思いをするか の2択しかないんですよね… 恥ずかしながら若いころはブランド品などをよく買っていました。私は親族がいなかったので、ブランド品を買うには自分で稼ぐしかありませんでした。収入がそこそこあり、ブランド品をもっていたりするので、「独身貴族でいいわね~。」みたいな目で見られることもありましたが、実家暮らしの人や、結婚している人には独身女性が1人で働いて、ブランド品を買えるくらいの収入を得るということが、どれだけの我慢と努力を必要とするか想像もついていないようでした。 むしろ、あまりに我慢やストレスが多すぎて、ストレス発散のために、わけもなく高価なブランド品を衝動買いしてしまっているというのが正解でした。友人との食事の約束も早くても、だいたい22時から23時に待ち合わせのことが多かったです。それくらいの時間まで仕事が終わらないのが当たり前でした。(水商売ではありません。) そして、友人とストレス発散の談笑をして家に帰ったら午前2時~3時、もう家に帰るのが面倒になって繁華街の知り合いのバーに朝までいて、24時間営業のマクドナルドで朝ご飯を食べて、そのまま出勤なんていうことも。一番多く稼いでいたころは、朝の3時4時まで働くこともしばしば。いま、考えれば生活は贅沢でしたが心と体はボロボロでした。
今は収入は多くないけど、そういう苦しみはないですね…夜の10時には布団に入っている生活なんて若い頃には考えられませんでした。ですが、やっぱり収入が少ないことで生まれてくるストレスが全くないかといえば、そういうわけではありません。 こんなことを言ってしまうと、みもふたもないかもしれませんが 何かを得れば、何かを失い、 誰の人生にも悩みや苦しみは尽きません。 ただ、努力をしなかった結果として生まれる苦しみよりも、努力をすることで生まれる苦しみを選ぶほうが、将来の自分に 「なんで、あの時ちゃんとやっておいてくれなかったの?!ヾ(。`Д´。)ノ 」 と、怒られなくてすむのではないかと思っています。 自分で言うのは変ですが、20代の私はよく頑張っていたと思います。ただ、40代の私が20代の私にアドバイスできることがあるとしたら、頑張る方向が違うんじゃないかな~ということ。目先の高給にばかり飛びつき、50代60代になった時に安定した収入を得るための「何か。」を積み上げていないんじゃないかな?ということを教えてあげたいと思います。30代や40代で看護師の資格を取ったりする人もいますが、そういう人たちはちゃんと将来を見据えた動きをしてるな~と感心します。 私自身は、まだ手遅れだとは思っていませんが、体力のある20代や30代のうちに、資格を取る、キャリアを積むなどの自分を高めるための苦労をできるだけ片付けておいて、40代50代で、介護などの回避できない苦労に取り組む準備をしておいたほうが体力的には楽だし、効率がいいかな…と思っています。